何のためにこれをしているのか、ということを考え直すようになってから、じつは今まで惰性でいろいろなことを続けてきていたのではないか、ということを思うようになった。
惰性で大学に行っていると言われればそれは否定できない。そもそも大学に入ることが自分の中で一つのゴールのようになっていたと思う。大学に入ればあれができるしこれができるから、高校生である今は我慢しておこう、ということがあまりにも多く、そしてそれは入学と同時に全て解放され、風土やら雰囲気やらの助けもあり、結果として名目としての大学がそこに生まれ、いつの間にか名目としての学生になっていた。名目としての学生なので、せめて朝ごはんぐらいは大学の食堂を有効活用することを強いられていて、それは自分を大学に繋ぎ止めている鎖のようにしっかり働いていると思う。
受験期はそれなりに成績もよかったのでなんとかなっていたが、大学ではそれは全く通用しないということが分かり、名目で生きていくほかないという気持ちが大きくなった。周囲にはすごい人間がいくらでもいて、思いがけずいろいろなことを学ばされる機会がある。名目としての学生は、下から数えたほうが速い成績をいくつも残すようになった。そしてそれでもなんとか単位は揃うので、いかにして楽をしながら単位を揃えていくかばかりを考えるようになった。名目とは気楽なものである。
いくらでもモラトリアムを満喫していようとは積極的には思わない。いつ仕送りが止まるかも分からない*1*2状況にあるので、少なくとも、おいしいものを満腹になるまで食べるためのお金や、遊び倒すためのお金ぐらいは自分で稼いでおいたほうがよいだろうと思い、アルバイトをしている。幸いクビにもなっていないが、得にすごいことをしているというわけでもなく、こちらの方もだんだんと惰性を帯びてきつつある。やはり時給に人は勝てない。環境*3さえもう少しよくなればと思うことは多々ある。
自分は特にすごい人間というわけでもなく、ただちょっと普通の人よりコードを書いた経験*4があるだけで、このままドロップアウトしても社会に飲まれるだけだろうという考えもあるし、生活基盤については安定志向のようなところがあり、突然の大きな変化は望んでいない。したがって考えに沿っていくと、準備が整うまでは惰性を続けていくのが最適であるという結論に達する。あれを止めたいこれを辞めたい、新しいことに手を出したいというのはあっても、身体が安定を求めてしまう。
惰性はだせえ、と言われても、それはその通りですが今はこうしているよりほかにないのです、と言うしかない。身体が欲している変化とは、現状を維持しつつ更なる高みを手にする変化であり、要するに甘えのようなものだ。惰性が惰性でなくなるのはいつのことやら、いつまでも未来の自分に期待している。