部員向け情報
2015年の例会講座の「PythonでQOLを向上させる方法」みたいなタイトルのスライドを見てください.
Twitter で流れてきた画像付きツイートにいいねをする行為を,まだ「いいね」が星だった頃から数えると,もう5年以上やりつづけていることになる.
表明としての「いいね」
さて,いろいろな意見があるがそうはいってもやはり,人は数字につられるし,数字が大きいとうれしくなる*1. いいものがいいものであると表明できる場があるとよいし,数字をインクリメントさせるという行為が手軽にできるサービスほど,表明をやりやすい. 我々はしばしば表明がしたい.それはあらゆる形をとって出現しうるだろう.
隠れファンとして機能していた「いいね」
Twitter のいいねは,かつてはタイムラインには何も流れないものだった. それは私にとってはとても都合のよいことであった. 画像付きツイートをいいねするという行為には,当然いいねする側の趣味が大きく反映され,時としておおっぴらにしたくないときもある. リツイートとはまた違った,こっそりとした表明に私は喜びを得ずにはいられなかった.
いつだったか忘れたが,いいねがタイムラインに通知されるようになった. 私自身は他人のいいね通知は見ないのだが,自分のが流れていくとなると話は別である. たとえば,自分のいいねしたツイートが流れた結果,場にふさわしくない画像が相手のタイムラインに表示される可能性が大いにある. こっそり表明したい,と思っていたものが筒抜けになるというのは,ずいぶんと恐怖感のあるもので,しかしもう慣れてしまったのだが,やはりかつてのような隠れとしての機能はないのだ,と思うと寂しい.
趣味嗜好の地層
「いいね」には,人の嗜好が現れる.
私は一昨年の10月ぐらいから,Twitter でふぁぼった画像付きツイートを Slack に流し,サーバーに保存する BOT を動かしている. 各種メタ情報も同時に保存するようにしており,ある程度は検索することができる. これを遡っていると,まるで地層を見ているような気分になることがある. 人の嗜好は変わりやすかったり変わりにくかったりする. ある地点から急にこのジャンルの画像を保存するようになったとか,ずっとこのジャンルの画像は保存しているとか,そういうことである. ここにもう一つコードがちょっと書けることの喜びという側面が出てくる. 昔は手作業でやっていたことを BOT に全部任せられるようになり,私はいいねをするだけで全てが済むようになった. とにかく楽をしたいという気持ちを満たすことができる. ところで,BOT を書いた後には,BOT をメンテナンスするという行為があるのだが,それはまた別の話である.
私は記憶の持たないほうなので,何か外部媒体に記憶を任せないと,すぐに空白期間が生じてしまう. 地層が外部媒体として機能するようになっている今では,私は懐しみを感じるのに少々の労力しか必要としない. そうして,悶々とすることも少なくなっていくだろう. 私は溢れる情報に自分を繋ぎ止めなければ,存在が認知できなくなるような,そういう気持ちを持っている.
可視化されることで初めて分かってくることもある.
意見
Twitter は早く自分のいいねの通知を流さないように設定できるようにしてほしい. 私は隠れファンのつもりで「いいね」をしており,「いいね」をアカウントとひもづけて大々的に表明していくつもりはない. TPO的なあれそれもある.
よく,「いいね欄はムッツリなんだろう」ということを言われることがあるのだが,いいね欄ぐらい好きにさせてほしいし,好きで通知しているわけでもない. 通知しない別の方法で保存する,となると,これはなかなかの課題になる.
私のことをフォローしてくれていて,何もそういうことを言わないということは,つまりいいね通知が見えていないか,別に気にするほどでもないと思っているかのどちらかだと思うようにしている.
*1:符号を付ければ小さい場合にも一般化できます.